自己紹介

 

 今野 覚

 

1966年生まれ。宮城県生まれ。東北学院大学工学部卒。大学時に塩釜キリスト教会の斉藤久吉牧師からバプテスマを受けてキリスト教に入信する。米沢興譲教会の田中信生牧師の師事を仰ぐ経験を持つ。元祖便利屋こと右近勝吉氏のもとでの見習いを基に自営の清掃業を東京で10年ほど営んだ。神の召命を受けて、2006年にキリスト教の牧師となり、京都の教会に赴任する。しかし社会の不穏な動きと、にもかかわらず教会の中に閉じこもってしまう状況にジレンマを感じ、10年務めた教会を辞め、京都市内で事務所を構えフリーの牧師となり、平和活動に専念する。しかし経済的に行き詰まり、そこを閉所して平和を訴え沖縄を目指す自転車の旅に出る。4か月の旅を終え、無事沖縄(本島)に到着、介護職を担いながら路上にて平和を訴える活動を展開する。現在は東京で活動中。

 

自己紹介を兼ねて

 

これは2010年に私が牧師になる儀式を受けるときに書いた「信仰経歴」と「召命観」です。自己紹介になればと思ってアップします。お読みいただければ幸いです。

 

 

信仰経歴

 

1.大学時の心の悩み

 

 私が生まれ育ったのは、東北の宮城県にある塩釜という港町であった。たまたま近くにキリスト教の幼稚園(聖光幼稚園)があり、それが私がキリスト教に触れる最初であった。卒園後塩釜教会の教会学校に通うよう勧められたが、日曜日の朝は「仮面ライダー」をやっていて、数ヶ月したら行かなくなってしまった。

 

 再びキリスト教と接する機会が訪れる。大学に入学し、大学生活をエンジョイしようと思っていたが、期待していたようにはいかなかった。授業が難しくてついて行けず、劣等感に打ちのめされた。また私は友人関係にも思い悩んだ。自己主張をするのが下手で内気だったので、友人に誤解されて本当の自分を分かってもらえずに悩んだ。自分の性格を変えようと努力したが変えることができず、かえって自己嫌悪に陥っていくばかりであった。次第に情緒不安定になり、神経症になった。心が絶望感で覆われて生きていけないように感じた。そういうことが発作的に起こるので、またなりはしないかとびくびくする大学生活であった。

 

 ある夜、怖さを紛らすためにラジオを小さくして寝ていたらそのまま寝てしまった。ふと目が覚めると夜が明けるころだった。ラジオから小さな声が聞こえていた。はじめは何の話か分からなかった。世界にはたくさんの本がある、といった内容であった。まだ目が覚めやらぬままに聞いていると、聖書は世界のベストセラーという話になった。ああキリスト教の番組かと気付いた。大学がキリスト教の学校だったので、礼拝の中で聖書の話は聞いていた。聖書で語られていることは真理だと思いながら、信じるまではいかなかった。でもその放送を聞き終わって思った。「キリスト教というのは熱心だなぁ、キリスト教では信じれば救われると言っているが、そんなにまで言うのなら信じてみようか」と。それが私が最初に神様に向いた瞬間だった。

 

 大学二年の秋頃、学校の礼拝である先生が、教会に行ったら人生が変わると話された。それを信じて、幼稚園の時に行ったことのある塩釜キリスト教会に行こうと思った。人目を避けて夜7時頃から始まる「夕拝」に行こうと思った。教会の門はかなり入り辛く、教会の前を行ったり来たりして、でも、今入らなかったらもう来ないかもしれないと思って、やっとの思いで入ることが出来た。教会の人たちは温かく私を迎えて下さった。私はその週から毎週欠かさずに教会に行くようになった。そしてその年のクリスマスにバプテスマを受けた。

 

不安、孤独の中にいた私に神は出会って下さり、完全に信頼し得る神がおられることを知って私は平安を得た。心の病になったことは辛かったが、苦しみに逢わなければこの神を、つまり苦しみの時に近くにいて支えてくださる神を知ることはなかっただろう。

 

2.母の死

 

私は大学卒業後、自宅から通える家具工場に勤めた。入社3年目に会社を辞め、栃木県にある有機農業を学ぶ学校に入学することにした。ところが私が家を出る1週間前に母の様子がおかしいことに気付いた。重いうつ病に罹患していたのである。母は私に考えを変えて家に残るように強くせがんだ。しかし私は母の病を痛みながらも予定通りに栃木に出発した。母は私に毎日電話してくれるように言った。私は「うん」と答えたが、何しろアジア学院は日本の中の外国みたいな所なので多くの海外からの研修生との出会いと新しいことを学ぶ喜びとで家に電話をすることをすっかり怠ってしまっていた。このことは今思い出しても悔やまれて仕方がない。母は入学して2週間後に自死した。夕方農作業をして寮に戻ると実家の父から電話があり、力ない声で母の死を知らされた。母は自宅で首を吊って自らの命を絶ったのだ。急いで新幹線に乗り宮城の自宅に帰った。母の亡骸を見ても不思議なくらい涙が出なかった。ただ告別式が済んで火葬場で焼却される時、今まで留められていたものがどっと噴き出した。もう生きている母に逢えないという事を私の身体が分かったのだろう。

 

葬儀を終えて早々に私はアジア学院に戻った。生活が程無くして落ち着いた頃だったろうか、一人部屋にいた時、神に対して憤りが沸いてきた。なぜ母を助けてくれなかったんだと。神の御心が判らなくなった。バプテスマ以来築かれた主との信頼関係が音を立てて崩れるのを感じた。ほんとうにガラスが割れるバリバリンという音が聞こえたように感じた。もう終わりなのかなと漠然と思った。しかし主なる神は私を見捨てることをしなかった。

 

3.米沢興譲教会

 

自分の心のケアが必要だった。ある日一冊の本との出会いがあった。田中信生牧師(米沢興譲教会)の本だった。それは今までのわたしには全くない考え方だった。〈前向き肯定的〉。こんなものの見方もあるのかと驚きを覚えた。わたしは何とかして田中先生から学びたいと必死で興譲教会で働くことを願った。その結果興譲教会で教会スタッフとして働くことを許された。あの時は本当にうれしかった。心痛んだ私は田中先生と教会の人たちの育まれ、信仰を強められた。教会に一生懸命に仕え、田中先生の指導を一生懸命におこなった。あの2年間は喜びと充実の毎日だった。

 

その後私はキリスト教の牧師になるべく東京に上京した。まずは経済基盤を得るためにクリスチャンの便利屋、右近勝吉さんのもとで便利屋の仕事を覚えた。さらに清掃業の仕事を学んで、自営業「ハレルヤ清掃」を営んだ。

 

4.イスラエル旅行にて

 

東京では自分にあう教会を探すのに苦労した。当時杉並中通教会の松田和憲牧師が声をかけて下さり、杉並中通教会へ通うようになった。「ハレルヤ清掃」を始める時は教会の皆様に大変お世話になった。

 

松田牧師を団長としたイスラエル旅行が企画され、わたしもそれに参加した。私は以前からイエス・キリストが生き、活動されたイスラエルに行ってみたいと思っていた。そこでは主イエスがより身近に感じられると思われたからだ。しかし、その地に行ってみると観光地化されていたせいもあって、主イエスを近くに感じるという雰囲気はほとんどなく気を落としていた。

 

ガリラヤ湖畔に宿泊した晩、自分の部屋に一人でいる時、私の心がまるで旅中のバスから見た「涸れ川」[1]のように乾いていたことに気づいた。私は一人嘆いて祈った、主よ、あなたはどこにいるのですか、と。すると詩編42[2]の御言葉が聞こえたように感じた。〈なぜ、おまえは御前で思い乱れているのか。神を待ち望め〉。御言葉が心にしみた。ああ、私は神の御前にいるのだという確信と平安が与えられた。

 

次の日、主イエスが山上の説教をしたと言われるところへ行った。そこには無数の野の花が咲いていた。アネモネや菜の花がガリラヤ湖から吹いて来る微風に、そよいでいた。私にはそれが本当に美しく感じられた。小さな野の花だったが、いつも神を見上げているようなその花を見て、私は小さい花でいい、この花のようにいつも神様を見上げていたいと思った。

 

5.神学校にて

 

私は導かれて、東京にある牧師になるための神学校で学んだ。4年間の学びを感謝している。しかし私にとって決して楽しいところではなかった。わたしは聖書を素直に読み、純粋に信じることが当たり前のことだと思っていた。しかしそこでは聖書を歴史的批判的に読むことを教えた。「信仰の相対化」を要求された。信仰者として当たり前と思われることでも批判の対象とした。それは辛く大きな試練だった。当たり前と思っていることを根本から問い直す作業は必要なことではあった。そのことは意義を認めつつも、信仰は知識ではなく生きる拠り所であるから簡単に批判したり悪く言ったりしてはいけないとわたしは考える。しかし神学校で学んだことは牧会に出ていくわたしに必要なことだった。必要な試練だった。

 

 

 

 

 

召命観

 

大学生の時に救われキリスト者になった私は伝道の意欲が盛んであった。すべてを神中心に考え、熱心に信仰した。就職したら会社でイエス様のことをお伝えしたいと願っていた。卒業して私は家具工場に勤めた。工場勤めの社員、大工さんたちにイエス様の話をしたいと考えていた。しかしなかなか出来なかった。ある時思い切って彼らに伝えた。休み時間に彼らが世間話をしているところに行って、「神さまは素晴らしい」、「神は愛です」、ということを伝えた。初めはうまくいっていた。ところがじきに私はそこで信仰的挫折をした。伝道したくて仕方なかったはずの自分がなぜだろう、“もういやだっ!”という思いを抑えることが出来ず、そういう思いが自分の内側から起きてきたことに自ら驚き戸惑い、それを受け止めきれずに、神さまに自分の好きな道に進むことを願った。かねてから関心があった有機農業の道に進むことを望んだ。

 

私は入社3年目に会社を退社し、栃木県にあるアジア学院に入学することにした。その後のことは上に書いた通り。

 

アジア学院で私は幾人かの牧師たちに出会った。彼らは私の牧師のイメージとは違っていて、自由な感じがした。如何に私の価値観が型にはまっていて、人はそれぞれ違うものだと肌で感じたものだった。

 

アジア学院卒業後、東京でアルバイトをしているわたしに中村健市牧師がわざわざ訪ねて来て下さった。そして私に横浜にある神学校での学びを勧めて下さった。突然なことでその時はお断りしたが、主に用いられたいという思いが出てきた。わたしはその時ひどい鬱にあった。死の恐怖が駆り立てたのだろう。こんなボロでも使っていただきたい。そして御心ならば牧師になりたいと思うようになった。真剣に祈った末の決断ではあったが、その時から召命を巡って葛藤が始まった。私など牧師に相応しくないと何度献身を断念したことだろう。しかし最後には牧師になるかどうかは問題ではなく、主に信頼して主にお委ねするべきだという考えに至っていた。

 

神学校に入る道筋が整えられた後、清掃の仕事を祈りながら勤めていた時、献身とは何だろうと考えた。結婚に似ている、と思った。一生のことであり簡単には変えられないことだ。そう思い巡らしていると神様があの時以来わたしを待ち続けているように思われた。家具工場でわたしは主の前から逃げだしたのだ、自分の弱さを認められずに。わたしはもう主から逃げないと思った。そしてその場で、“主よ、お献げします。お受け下さい”と祈った。

 

『あなたの道をにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』 詩編375

 

最後までお読みくださり、感謝いたします。

 

 

 

 


[1] 涸れ川、ワジ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B8

[2] 詩編42編はこちらから読むことができます。http://www.christian-life.jp/Bible_D02/Shinkaiyaku/Ps/Ps042.htm

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」の「谷川」はワジのことです。

 

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