「主の証人たち」
2018.6.10
使徒3:1-10
シャローム!主の平安がありますように。
一言お祈りいたします。
「ヤハウェなる神様。ハレルヤ!あなたの御名をあがめます。御言葉をお語り下さい。主がお一人お一人になくてならない命の御言葉をお語り下さいますように、お願いいたします。拙い者が取り次ぎをいたします。主よ、務めを果たすことができますように、この僕をお助け下さい。主ご自身が働かれますように。僕があなたのお手伝いをすることが出来ますように。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。」
午後3時の祈りの時。敬虔なユダヤ人は日に三度の「祈りと賛美」を自分の神にささげたそうです。
周縁化された人
生まれつき足の不自由な男が運ばれてきた。彼は周縁化された人の象徴と言えます。
その当時の人々は、罪を犯したため、神の裁きとして病気になると考えたそうです。でも生まれつきということは先祖が罪を犯したためか、それとも本人なのか、問いが生じるところですが、どちらにしても罪の結果であろうと人々は思っていた。人々から罪を犯した者と見られていたその男がエルサレム神殿の「美しい門」に運ばれてきました。
権力を象徴する門
「美しい門」、これは神殿のどの門であったかは分かっていません。一説には「異邦人の庭」から「婦人の庭」に入る門のことではないかといわれます。その時代のユダヤ人歴史家、ヨセフスは、とある門を指して、「コリント式の青銅の門で『銀をかぶせ金をはめ込んだ門よりもはるかに高価なものであった』」と表現したそうです。わたしはこの『銀をかぶせ金をはめ込んだ門』が「美しい門」ではないかなと考えました。
この神殿は「ヘロデの神殿」と呼ばれ、ヘロデ大王が前19年に再建築を開始しました。今日の聖書箇所(使徒言行録3章)の出来事は約30年ころですから、この「美しい門」もヘロデによるものであり、彼の権力をアピールするものと言えるでしょう。
さらに言えば差別的な造りをしていたといえます。最も神聖な場所には大祭司だけが入ることが出来ますが、その外側に「祭司の庭」があり、さらにその外側にユダヤ人男性だけが入ることが出来る「男子の庭」があり、「婦人の庭」、「異邦人の庭」とあり、ユダヤ人女性は「婦人の庭」までしか入ることが出来ず、異邦人(非ユダヤ人)は「異邦人の庭」までしか入ることが出来ません。
イエスの神殿批判
イエス・キリストは神殿批判をしました。イエスさまが弟子たちと神殿を出て行くときに、弟子たちが神殿の荘厳さを称え、「りっぱな神殿ですね~」と言ったときに(ありがちなトークですね)イエスさまは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われたことからも伺われます。イエスさまが十字架上で息を引き取られるときには、至聖所の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたといいます。これは主なる神との交わりを妨げる一切のものが取り除かれたことを暗示し、もはや主なる神の前にユダヤ人も異邦人もなく、男も女もないことを表わしています。神は人を分け隔てなさらないのです。
さて話を戻しまして、ペトロとヨハネ(彼らはイエスさまの弟子たちでした)が「美しい門」を通りかかったときにこの足の不自由な男をじっと見つめました。
銀や金はない
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
「わたしには金や銀はない」。「銀」はいわゆる銀貨、お金。「金」はお金の意味もありますが、金の装身具、貴重品といった広い意味も含んでいるかもしれません。先ほど『銀をかぶせ金をはめ込んだ門』が「美しい門」ではないかと言いましたが、華やかなこの門に施してあるような銀や金はないと言う意味で言ったのかもしれません。
ペトロやヨハネはキリスト教会の指導者でしたが、彼らは信徒たちと一切のものを共有にしていました。ですから「わたしには金や銀はない」と言うのは本当ですが、さらにわたしにはヘロデ大王のような富も権力も持っていないという意味を含んでいると思います。人間が構築した権力は所有していない。目を見張るような立派な荘厳な建造物を建設するような富は持ち合わせていない。また多くの人たちを支配してその頂点に立って得られる権力もない。
人を創り返る力
な~んだ、金銀はないのか。その男はがっかりしたかもしれない。人は金銀を求めるものです。上から滴り落ちるおこぼれに預かりたいものだと思うものですね。経済の言葉でトリクルダウンというのがありますが、それを求めてしまう。
しかし無から有を生み出す神は、貧しさ、不遇、無名性をプラスに変える力があった。
「持っているものをあげよう」。何を持っていたのでしょう。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼の両足が癒された。期待以上のものだった。夢にも願わなかったものだった。でも本当はそれが一番欲しかったものだったはず。あきらめていた。生まれつきだから、自分の先祖が罪を犯したから、願うこともしなかった。どうせ自分なんか…と自己憐憫して、自分の苦しみを誰かのせいにして、世をはかなげに生きていた。何かしてもらわなければ何も出来ないという心の壁があった。人に媚びて、受けることしか考えられず、いじめいじめられ、差別されてもこれが世の中だと割り切って生きていた。周りを責めても仕方ないから自分の生を恨んで、周りが状況が変わるのをじっと待つという思考停止。不自由なのは彼の足ではなかった。
「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」今日あなたにそれが起こりますように!理屈じゃないんだ。
周縁化された人が用いられる
人々が驚き、二人の下に駆け寄ると、ペトロはキリストの救いを語りだします。どうしてあなたたちはわたしたちの力や信心によって癒したかのように見ているのですか。主なる神はあなたたちが十字架につけて殺したイエスを死の中から復活させられました。そのイエスの名が彼を強くし、立ち上がらせたのです。神が遣わしたキリストが苦難を受けることはかつての預言者によって預言されていました。それは人々の罪が露わにされるためであり、しかし主なる神はそのどうしようもない人間の罪から救い、神の愛を表わすためにキリストを復活させました。イエスが復活したのは十字架にかけた人々に報復するためではなく、その人たちを祝福するためだったのです。ここに聖なるどんでん返しがあります。主なる神はこの世で周縁化された人を用いて救いを現されます。それはその人個人の救いだけはでなく、全体(世界)が救われるためです。まさに聖なるダ~イ、ド~ン、デ~ン、返し!です(とんねるずをパクリました)。
ですから自分の中に罪があるなあ、と思ったら、それは神からの恵みだと思ってください。「罪の増し加わったところには恵みはなおいっそう満ち溢れました。」(ローマの信徒への手紙5:20)
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