礼拝メッセージ『囚われ人らに解放を』

 

礼拝メッセージ『囚われ人らに解放を』

 

2018年2月11日

木津キリスト教会にて

 

 

 

 

 

聖書 新約聖書ルカによる福音書4章16-21節

 

 

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。

 

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

 

主がわたしに油を注がれたからである。

 

主がわたしを遣わされたのは、

 

捕らわれている人に解放を、

 

目の見えない人に視力の回復を告げ、

 

圧迫されている人を自由にし、

 

4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

 

4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

 

 

パレスチナのナザレという村でお育ちになったイエスさまは神の子、キリストとしてこの世に来られたわけですけども、イエス・キリストとわたしたちは呼びますが、イエスが名前で、キリストが苗字、というわけではなく、称号ってやつですね。「キリスト」はギリシャ語で、ヘブル語のメシアという言葉をギリシャ語に訳したものです。「油注がれた者」という意味だそうです。今日の聖書箇所でも18節の3行目に「主がわたしに油を注がれたからである」とあります。つまり、メシア、キリストですね。

 

ここにはイエスさまが遣わされた、その理由が書いてあります。それは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」です。そしてこの後に3つのタイプの人が出てきます。「捕らわれている人」、「目の見えない人」、「圧迫されている人」。この人たちをひっくるめて、「貧しい人」と言われているんだろうと思われます。そしてある注解書を見ますと、この「貧しい人」というのは「社会的、経済的、宗教的に排除され、また周縁化された人たちのこと」(新共同訳新約聖書略解)であると書いてありました。そしてそういう人たちに「解放、回復、自由を与えることが福音」なんだと書いてありました。まさにわたしが普段言っていることでありまして、周縁化された人たちといっしょに生きましょう!ということと一致するわけであります。貧しい人に福音を告げ知らせるためにイエスさまはこの世にキリストとして来られたという訳なのです。ですから、これはわたしたち(キリスト教会)は再確認しないとならないなーと思うんですね。キリストはそういう人たちのために来られたのに、教会は無関心でいていいんでしょうか。

 

19節、「主の恵みの年を告げるためである」。これはどういうことかといいますと、旧約聖書(ヘブル語聖書)には「ヨベルの年」というのが出てきます。レビ記の25章8節以下、そこを読んでみましょう。

 

あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。25:9 その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、25:10 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。

 

 

 

7年を7回数えた49年が過ぎて50年目の年に、雄羊の角笛を鳴り響かせて、ヨベルの年であると宣言をする。そしてこの年にはすべての負債は帳消しにされて、奴隷たちは解放されて自分の先祖の土地に帰ることが出来た。50年に一度、すべての者が解放されて自由になる年があるということなんですけど、実際にはこれはなかなか守られていなかったようです。イエスさまは、終末のときに実現される最後のヨベルの年を告げるために来たんだということです。

 

でもあえて言わせていただければ、イエスさまが宣べ伝えたヨベルの年、すべての人が自由にされる、そして貧しい人に救いの福音が実現する。それはもう実現しているのだ、そのようにわたしはお伝えしたいなあと思っています。そう思って街中で路上ゴスペルをしています。でも現実にはそうなっていないではないか、とおっしゃられるかもしれませんが、わたしはここに神さまの知恵が示されているように思います。「神の愚かさは人よりも賢い。神の弱さは人よりも強い」という聖書のみことばがありますが、イエス・キリストに現された救いのことです。私が周縁化された人たちといっしょに生きましょう!共に手をつないでいきましょう!そして周縁化されたパレスチナにピースパレードをしましょう!

 

パレスチナでは、もともと住んでいたアラブ人たち、パレスチナ人たちの土地にイスラエルという国を建国して圧倒的な武力で武器を持たない人たちを排除して周縁化している。社会の隅に追いやって、分離壁を作っている。そういうことがパレスチナで起きています。そういう人たちにこそ神の国は用意されていて、そういう人たちにこそ神の救いはあるのだ。だからそういう人たちと共に生きましょう。いつも心の中心においてそういう人たちといっしょに生きるような生活をするならばわたしたちも神様の救いにあずかることが出来るんだ、ということです。

 

これは神さまの知恵が示されている。わたしたちは権力とかそういうものに頼ってしまう傾向がある。強い力にお任せして自分たちはついて行けばいいんだと言うような考えを持ちがちなんですが、しかしそれは人間の立てた権力であり、それに従うことは誤っていることなのです。そうではなくて、この世界を創られた神がいらっしゃって、その方におゆだねして生きることがわたしたちの救いにつながるわけであります。その神さまがどのようなことをお求めになっておられるかといいますと、今日読んでいただきましたように、貧しい人に福音を告げ知らせることが天地を創られた神様の御心であるのです。ですからその神様の御心に従って生きるならば、わたしたちも平安を与えられ、神さまの恵みのうちを生きるということが言えます。

 

二千年前にイエスさまがその救いを始められた。それが時間をかけて、次第しだいに広がっていって、そして地の果てともいえるこの日本にまで福音は届けられました。でもヨベルの年が宣言されているとは言いがたい現状であります。わたしは敢えて、ヨベルの年は実現していますよ、そのように言いたいのです。つまりこの世で周縁化された人たちと共に生きるならば、わたしたちはこの救いにあずかることが出来るんだということです。わたしたちは実際に貧しくされたり、搾取されたり、そういう生き方というのは好んで出来ないものです。でもそういう人たちとつながって生きることは出来るんじゃないかなと思うんですね。そういう人たちのことを心に思って生きる。そういう人たちの苦しみを見たときに、ちょっと手を貸してあげる。そういう生き方はわたしたちにもできると思うんです。イエスさまはこの世で苦しんでいる、差別されている、虐待されている、そういう人たちと共にいて、十字架を負ってくださっている。例えば、あの福島の原発事故でふるさとを失った、放射能の被ばくに苦しみ、不安な中を生きている人たちのことを忘れることなく、心に覚えて、何かあったときには手を貸してあげられるような、または、沖縄の、米軍基地を押し付けられている、毎日不安な中生きている人たちとつながって生きる。そういうことによって、わたしたちはヨベルの年にあずかることが出来るんだろうと思います。そのことを伝えたいと思って路上ゴスペルをしています。

 

本当に暗い時代、将来が見えない時代ですよね。核戦争というものがかつてないほど危機的な状況、現実的なこととなっている。確実にこういう危険が高まっている。こういう時代だからこそ、わたしたちはどこに希望を見出すか。わたしはイエス・キリストがすでにその救いを与えてくださっている。そのように宣言したい。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスさまはそのようにおっしゃられた訳で、わたしはイエスさまの言葉に立ちたい。みなさまも今日、聖書の言葉を耳にしたときに実現した!と確信していただきたいと思います。

 

要は皆さん次第ということになります。神さまの救いはもうすでに用意されている。それを皆さんが受け取るか否かだ。核戦争という、人類史上かつてないような混沌に向かって希望のないまま進んでいくのか、それとも神さまがもうすでに用意されている救いを信じて、一日いちにち、希望をもって、喜びをもって歩んでいくのか、それは皆さん次第。おひとりおひとり任せられていることであります。

 

最後にイエスさまのたとえ話をもって終わりたいと思います。

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイによる福音書25章31-46節)