メッセージ文字起し2017.10.8

新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)15章20-28節 

15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
 15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
 15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
 15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
 15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
 15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
 15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
 15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
 15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 

 

 

さて、今朝読んでいただきましたところ、コリントの信徒への手紙(一)15章20節以下ですが、ここで復活ということが言われていますね。フッカツって何でしょう?死者からのよみがえりということですね。キリスト教はそんなことを信じているんですか、なに時代ですか、と言われそうですけれども、キリスト教というのは今も死者からの復活ということを信じているんです。それは今日読んでいただいた箇所の前の段落で、コリントの教会では「死者の復活はない」と主張している人たちがいて、そういう人たちに対して、死者の復活はあるんですよ、死者の復活がなかったらわたしたちはイエス・キリストを宣べ伝えていることが空しいことになってしまいます。ですからこの復活という教えは譲れないことだとパウロは強く主張しています。

 

それに続いて世の終わりということもここで言われています。「終末」ということばでいわれたりします。キリスト教ではこの世の終わりということも語るわけです。仏教ですと輪廻と言う教えがあるでしょうか、死と再生を繰り返していくという信仰ですが、キリスト教では神がこの世界を造られた、始めがあるんだから終わりもあるんだという歴史観が聖書全体を貫いている。始めがあって終わりがあるというのがキリスト教の考え方なんですね。そして「世の終わり」、世界の終わりがあるということを聖書では厳かに教えています。ちょっとカルトチックな感じもしますけど、キリスト教にとっては外せない点なんです。

 

それで今日のところ、どんなことが書いてあるか、読んでみますと、24節、「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」と続くんですけど、ここを見ますと、キリストはすべての支配、権威、勢力を足の下に置かれるときまで、王国を支配される、と。つまりイエス・キリストという方は、神の独り子でありましたがこの世に遣わされて、救いを成し遂げられて天に昇られ、救いの完成への間の時だという理解なんですけども、その父なる神から遣わされたキリストがやがては、世の終わりのときにすべての支配、権威、勢力を滅ぼす、そういうときが来るということが言われています。ということはですよ、まだそのときには至っていない、まだ世の終わりには至っていないですよね。ということはこれを見ますと、キリストはいま現在、王国を支配しておられるということがお分かりになると思います。世の終わりに至ってキリストがすべてをご支配されるというのではなくて、いま、このとき、キリストは王国を支配しておられる、そしてすべての敵がキリストの足の下に置かれるときまでそれが続くのだということがここで言われているわけです。でもどうでしょうか、キリストという方がこの世を支配しているという実感があるでしょうか、どうでしょう?まあ、世の中を見てキリストが支配しているという実感というのはなかなか沸きにくいんじゃないかなと思うんですね。さてこの点どうなのかという一つ疑問があります。そしてここを見ますと、キリストが支配、権威、勢力を滅ぼすんだと書いてますね。このイメージというのはどうでしょう。キリストが何か敵である支配、権威、勢力をバッタバッタとチャンバラのようになぎ倒すという、そんなイメージに受け取られるかなと僕は思ったんですが、果たしてそうなのか。またこの箇所は旧約聖書(ヘブル語聖書)詩編110編からの引用です。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」。「わたし」は父なる神、ヤハウェのこと。「あなた」はキリストをさしているという理解です。つまり父なる神が敵を足台とするときまで右の座に就いていなさい、ヤハウェなる神の右の座ですから王座に就いていなさいということ。主なる神の右に座って王国を支配している姿がここから読み取ることが出来ます。果たしてそうなのか。神の右にただ座って、世の中どうなっているかなと、眺めているだけのキリストなのか。

 

さてそれについて、新約学の青野太潮さんはこのところをこう訳しています。「キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、(王国を)支配することになっているからである。」神が、敵を滅ぼすんだ。主語が彼となっていて、キリストと訳すことも神(ヤハウェ)とも訳すことが出来る。青野さんは神と訳した。

 

後、神の右に座ってただ眺めているだけのキリストなのか、ということについて、青野さんはこういうことを強調して言われるんですね。聖書お持ちの方は、コリントの信徒への手紙(一)1章23節を開いてみてください。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」となっていますが、青野さんは「十字架につけられてしまっているキリスト」と訳すべきだと。なぜかというと、ここでは単に過去形の動詞が使われているのでなく、現在完了形の動詞が使われているからです。現在完了形というのは過去に起きた出来事が継続して現在に至るまで影響を及ぼしているという意味を含んでいます。「今もなお十字架につけられたままでおられるキリスト」。神の右に座ってただ見ているだけのキリストではなくて、今も常に十字架につけられたままでおられる、そのキリストをパウロは宣べ伝えていると言うことができる。十字架というのは処刑台ですね。手と足に釘を打たれて磔にされて死んでいく、処刑台としての十字架。この十字架に今もなおキリストはつけられたままなんだとパウロは言うわけです。それはどういうことかというと、この世で苦しんでいる、差別されている、貧しくされている、虐げられている、そういう弱い人たちとキリストは共に苦しみを負っておられるんですよ、そういうことが言えると思います。つまり、キリストのご支配ということですね。王国を支配しておられる、いま現在。それはどういう形でご支配されているのか。何か強い武力でもって支配している、または神の隣に座ってただ見ている、そういうことではなくて、今現在、この世で痛みを負って、泣きながら苦しんでいる、そういう人たちと苦しみを負っておられるんですよ、そのことが「キリストのご支配」ということの意味なんだ。そうすると見えてくるんではないでしょうか。この世でスポットライトが当てられずに社会の隅で暗闇で声を上げずに泣き続けている、そういう人たちの主、王としてご支配されておられるんだということが言えるだろうと思うんです。つまり主なる神はこの世で権力を持っている、権威、そういう人たちに虐げられている人たちの側に立っている、キリストがおられて、そういう人たちの王様なんだ。テレビだけ観ていると権力の側の視点でしか映し出されませんから、闇に葬られている、陰で泣いている人たちの声はテレビからは聞こえないですね。でも神様の目から視たらむしろ王国の中心は陰で泣いている人たちにこそ向けられて、その人が王国の中心なんだ。この世の価値観は上で偉そうにしている人が中心という考え方ですよね。でもそうじゃない、神様の目から視たら世の中の隅っこで泣いている人こそが神さまにとっては一番大切な人たちであり、中心なんだ。そういうことなんですね。そしてやがてその神が勝利するときが来る。最後に滅ぼされるのは「死」である、と書いています。わたしなどは平和活動に携わっていますので、なんというのか、この世の力を持っている人、お金を使ったり、武器を使ったりして、人々を脅かしている、そういう人が敵のように思えてしまうんだけれども、それはあくまでもプロセスであって、最終的な敵は死である、死が最後の敵なんだ。だからわたしたちも捉えなおさなければならないなと。つまり目に見える敵ではなくて、向かうべきは、死が敵なんだ。

 

先日、さだまさしさんってご存知でしょうか。歌手の。インターネットを観ていたら10月2日付けでしたか、あの方が「風に立つライオン基金」というのを立ち上げたそうなんです。「風に立つライオン」というのはさだまさしさんの代表作ともいえる曲ですが、アフリカの大地で日本人の医者が献身するという歌です。それは映画化もされました。それにちなんでさださんがボランティアをする人を支える働きを今後していきたいという意思表明をされたというんですね。実は僕、さだまさしさんって、そんなに知らなくて、そんなに好きでもなかったんですけど、今回さださんの歌った「風に立つライオン」という歌を、最近は便利ですね、ユーチューブとか、インターネットですぐ歌を聴けるという時代になって、聴いたらホントに感動しましたですね。皆さんも聴いてみて下さい。アフリカの大地で、ある日本人医師が、病と闘っている人たちに献身していく、そういう歌なんです。それで、実は昨日その映画を見ましてね、まあ今日のためにということもあったんですが、映画観ました。そうしたら大沢さんという方(俳優)が主役をやっていて、清々しいお医者さんの演技をされてて、感動を呼ぶんですけど、彼はアフリカの大地にお医者さんとして遣わされていくんですけど、不本意で戦闘の激しい地域に送られるわけですね。そうしたら、手術といったら腕を切断する、足を切断する、そんなことばかりで、もううんざりするんですけど。でもその大地で、主人公のお医者さんは内戦の中で苦しんでいる人たち子どもたちに献身していく道を選んでいくわけですね。やはり、人間というのは「死」と向き合うように創られているのかなあと思います。さだまさしさんの詩を(一部)読んでみたいと思います。

 

 

 

「…

 

この偉大な自然の中で病いと向かい合えば

 

神様について ヒトについて 考えるものですね

 

やはり僕たちの国は残念だけれど

 

何か大切な処で道を間違えたようですね

 

 

診療所に集まる人々は病気だけれど

 

少なくとも心は僕より健康なのですよ

 

僕はやはり来てよかったと思っています

 

辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです

 

…」

 

 

 

人間というのは生き方は自由なんだけれども、最終的には死と向き合っていかなければならない、そういう存在なんだな、と思わされます。そしてそこから逃げないで、向き合い、死の苦しみと闘っている人たちと生きようとするときに、神様はそういうところに働かれるんだなと思わされます。

 

キリストは死に勝利された方である。死に勝利された方、イエス・キリスト、その方に従っていくならば、わたしたちは死に打ち勝つことが出来る。わたしたちの敵は、となりの嫌いな人とか、何か武器で攻撃してくる人、そういう人ではなくて、本当の敵は「死」であり、わたしたちの中にある「罪」なんだ。そういうものに牛耳られて、奴隷のように引っ張られていく、わたしたち一人ひとりは弱い者なんだけども、イエス・キリストは死に打ち勝たれた、その方を信じるときに、わたしたちも死に勝利することが出来るんだ。そう聖書は教えています。わたしたちは弱いです。死に打ち勝つなんてそんなとんでもない。でもイエス・キリストは死に勝利されて、その方を信じるならばわたしたちも死に打ち勝つ勝利を手に入れることが出来るんだ。アフリカに遣わされたお医者さんのようにではないかもしれない。でもわたしたちが生かされているところで、死に打ち勝って周りの人を活かしていくような、そういう働きはわたしたちにもできる、そう思うんです。人には出来ないかもしれない。でも神さまには出来ない事は何もないのであります。お祈りいたします。一緒にお祈りいたしましょう。

 

 

 

わたしたちの天の父なる神さま。ハレルヤ!あなたの御名を賛美します。

 

死に打ち勝たれたキリスト、あなたは救い主としてこの世にお遣わしになりました。

 

どうぞ、わたしたち一人ひとりは弱い存在です。

 

自分勝手に生きたいと思う。人のことはどうでもいいと思う気持ちもあります。

 

でも死に勝利されたイエス・キリストを仰ぎ見るときに、わたしたちも内側から変えられる、そういう力が与えられるように思います。

どうぞ、わたしたちにも与えてください、あなたが祝された歩みを。

 

死と向き合い、他者のために命を捨てる、そのような尊い働きにわたしたちも用いられますように導いてください。

それぞれ与えられている情況、環境がございます。その只中で、神様のみ業が顕されますように。どうぞ用いてください。あなたの栄光にあずかることが出来ますように。

感謝して、イエスキリストのお名前で祈りいます、アーメン。